1979年(昭和54年)

12月
渡辺真純(元監督)をはじめとする医学部(当時予科1)の数名が日吉記念館前で有機化学の実習を抜け出しフットボールごっこをはじめる。これが我が部のスタートである。当時、フットボール用品といえば、Wilsonのボール1つであった。



1980年(昭和55年)

3月
フットボール経験者である当時工学部1年の森田氏をコーチにむかえる。そして防具1人分をQBクラブで購入した。その時応対したのが、現在でも我々がお世話になる大川さんであった。

4月
新入部員獲得は見事失敗におわる。このころから本格的に練習をはじめたが、部員5人にボール1つ防具1という状況であった。
6月
予科1の多田羅が入部。彼の入部によりフットボール部の将来が開けたのである。
7月
神奈川県辻堂海岸で初の合宿を行う。2泊3日で、ほとんど毎日、酒びたりであった。多田羅先生はやたらと酒が強かったそうである。

週2回の練習を続けるようになる。このころ防具もそろった。予科1嶋田が入部。



1981年(昭和56年)

2月
信濃町校舎内グランド(通称トリカゴ)で練習を始める。野球部、サッカー部の使用しない早朝・夜間の練習であったが、ナイター照明のあるホームグランドを持つこととなったのである。

4月
脳神経外科戸谷重雄先生を部長に迎え、正式に医学部三四会のクラブとなる。この年の新入部員として長谷川が入部。彼はいつも礼儀正しく学生服を着こんでいた。このころ、助っ人として長柄、岸、斎藤が参加した。
6月
創部以来初の対外試合を、法政大学工学部ビーバーズと、日吉普通部第2グランドで行う・小雨の中試合が行われ・記念すべき第1プレーは『Tからパワーオフタックル右・コール1』であった。そして10-6で勝利を飾ったのである。



1982年(昭和57年)

1月
当時予科2の多田羅が主将となる。主将はラインであったため、練習はあたり中心となったことはいうまでもない。

4月
新入部員として郭、成田、澤藤の3人が入部。当時学1の清水も入部し、上田、大木も助っ人として参加した。そして当時厚生女子学院1年の加藤、清野が自主的にマネージャーを志願し、初めての女子マネ誕生となった。新しく結成されたオレンジリーグ(多摩美、東洋大、法政大、慶応医)に加盟。

5月・6月
オレンジリーグのオープン戦3試合を行う。結果は、3試合とも完封負けの惨憺たるものであった。

8月
山梨県河口湖畔で合宿を行う。寄生虫学故浅見教授の紹介により関東フットポール協会常任理事で体育会OBの早川秀忠氏が監督に就任される。早川氏は塾高アメリカンフットボール部の創設者であり、当時まだ歴史の浅かった我が部に有益な助言、忠告をいただいた。

10月
早川監督、塾高アメリカンフットボール部福田監督(当時)の紹介により、体育会OBの上野善氏がヘツドコーチに就任される。予科1の荻野が入部。

10月・11月
オレンジリ一グの公式試合を行う。結果は善戦むなしく3戦3敗であった。しかし、初戦の法政戦では、第4Q終了3分前、予科1成田が50yardsのTDパスをレシーブするという感激のシーンもあった。


1983年(昭和58年)監督早川秀忠・主将多田羅恒雄

4月
新入部員として、足立、伊藤、小山田(吉)、中川、谷戸、渡辺が入部。この年の新入生達には、当時のマネージャー加藤久美子君に魅せられて入部した者も少なくなかったという。このうち、足立、中川は、後にそれぞれ水泳部、野球部へと転部した。

5月・6月
オープン戦第1戦は北里戦であった。新入生達は、試合会場に朝早く到着し、自分達のヘルメットにスプレーを吹きつけた。また彼等がこの試合で着用したショルダーは、QBクラブで買ったばかりの真新しいものだった。そして、一年生が全員スターティングメンバーで出場したという。この年から、我がチームは医科歯科リーグに準加盟したわけだが、オープン戦の試合結果は惨憺たるもので、点が全くとれずに全敗した。

8月
戸狩にて夏期合宿行われる。この年は猛暑に襲われたようである。夜は、毎晩酒盛りが行われた。また、このとき、後の我がチームの大黒柱となる久保田が加わった。

9・10月
2泊3日で河口湖において秋期合宿が行われる。この合宿は、練習も少なく、大義名分をかかげた飲み会の感があった。早川監督の御尽力で医科歯科リーグに準加盟し、臨んだ初の公式戦であったが、試合結果は惨憺たるものであり、翌年への決意を新たにした。