1984年


スタッフ 部長 戸谷重雄
監督 上野善
コーチ 宮澤洋一
コーチ 柿沼光信
学生スタッフ 主将 多田羅恒雄
副将 松下幸生
主務 澤藤誠
副務 長谷川博俊
春のオープン戦 対戦校 結果
5月13日 東海医 ●0-34
6月3日 鶴見医 ●0-34
公式戦戦歴 3勝3敗 2部4位
慈恵医 聖マ医 獨協医 東海医 帝京医 日歯大 慶應医
慈恵医 ●0-6 ○不戦勝 ●0-14 ○22-0 ○52-0 ○24-0
聖マ医 ○6-0 ○不戦勝 ○14-0 ○22-0 ○54-0 ○20-18
獨協医 ●不戦敗 ●不戦敗 ●不戦敗 ●不戦敗 ●不戦敗 ●0-14
東海医 ○14-0 ●0-14 ○不戦勝 ○20-6 ○50-6 ○22-0
帝京医 ●0-22 ●0-22 ○不戦勝 ●6-20 △8-8 ●0-36
日歯大 ●0-52 ●0-54 ○不戦勝 ●6-50 △8-8 ●0-40
慶應医 ●0-24 ●18-20 ○14-0 ●0-22 ○36-0 ○40-0
1984年4月
68回生以下アメフト部全員の努力で有望新人6名入部。関東医科歯科2部リーグに正式加盟したこの年、現部員4名のほか、矢島祐一君(のち阪大医学部)、石塚裕人君の6名の大量入部で、部員数は19人に膨らんだ。最初に入部したのが安井で、最後まで渋っていたのはもちろん小山田(弟)(以下、和)でした。ちなみに私は日吉の焼き鳥屋で簡単に入部を決めてしまいました。
5月新歓、ダンパ
練習が始まってら、遅刻はするや勝手に休むわで、勤勉だった安井や和に迷惑をかけていたのは私でした。どうもすいません。特に、長谷川先生のムリを一手に引き受けていた安井に感謝。(外科に入って今度は仲良くしてね)
安井の早退という反則攻撃で幕を開けた新歓は、成田先生は爆発するし、久保田さんの芸は飛び出るわの大騒ぎだった。そしてこの年のダンパで、S氏に運命の出会いが待っていたとは……。(またこの年のダンパは我が部創立以来初めて行われたもので、ダンパ主任は谷戸さんであった)(編注)
6月,7月
我々にとって幸運だったのは部員数やチームのレベルの関係で春のオープン戦から試合に出場できたことだ。(残念ながら、右肩脱臼中の和には出番がなかったが)まだルールさえよくわかっていなかった私は、一体グランドでなにをやっていたのだろう。
東海大学医学部(2部)、鶴見大学歯学部(1部)との2試合を行ったが、結果は共にO-38の大敗だった。雨中の対戦となった鶴見戦は前半こそグランドの軟弱さに助けられ善戦したが、雨のあがった後半は一方的な試合になってしまった。当時の鶴見は本当に強かった。この時期、小山田(兄)先生は、我々があまりのチームの弱さに愛想をつかして退部することを恐れていたそうだ。
8月合宿
関東医科歯科秋期リーグに初挑戦すべく、この年、長野県飯綱高原にて8/2より8日間合宿を行った。空いているグランドを日替わりで転々として練習したことを覚えている。上野監督(当時)が練習では外見とは違って、大変厳しい方だということがわかった。また、昼の時計係りの和は、荻野先生、長谷川先生をはじめ全員の恨みをかった。最後の夜は新歓の再現とだったことはいうまでもない。
9月,10月,11月秋のリーグ戦
合宿を終え、リーグ戦を前に我々新人は全員スターターだった。(ムカシハヨカツタ。)2部リーグは7校で構成されており、日程は以下の様に組まれた。

9/30聖マリアンナ医大

10/7独協医大

0/14慈恵医大

10/21東海大医学部

11/4日大歯科大

11/11帝京大医学部
初戦は、2点差(18-20)で敗れたもののこの年初めてのタッチダウンをあげたことでチームは調子づき、次の独協医大戦で医科歯科リーグの初勝利(24-O)をあげ、望外の4位(3勝3敗)で我々の最初のシーズンは幕を閉じた。当時、伝家の宝刀のハンドオフは本当によくでた。
納会が、再び修羅場になったことを付記しておく。とにかく成田先生はこわかった。カラオケで私と諏訪で渡辺(真)先生のマイクをもぎとって歌いまくったことを覚えている。この年初めてMVPが設定され、当時予2のRB伊藤が、その獅子奮迅ぶりを評価され、初受賞した。(大山記)