1998年


スタッフ 部長 小林紘一
監督 小山田和弘
助監督 大山泰生
助監督 片山正輝
助監督 山田素行
チームドクター 長谷川博俊
学生スタッフ 主将 小野正徳
副将 斎藤毅
副将 小黒草太
主務 秋田大宇
公式戦戦歴3勝1敗Bブロック同率1位規定によりプレーオフ進出不可
慶応医 明海医 聖マリ 東京医科 帝京医
慶応医 ○28-26 ○26-0 ○27-6 ●8-22
明海医 ●13-16 ○25-7 ○27-23
聖マリ ○14-7 ●3-20
東京医科 ●14-21
帝京医
4月
大学入学と同時に始まった嵐のような勧誘で毎日のような接待に、今日は三田明日は信濃町と飛び回ったのを覚えている。アメフト部入部第一号は原田で、初日にアメフト部の接待を受けてそのままうっちゃられた、といった感じだった。また、田中はサッカー部に入部がほとんど確定していたにもかかわらず、当時の主将の小野さんに「兼部もできるぞ」と説得されて(ムリヤリ?)兼部、ということになった。下沢は相変わらずの優柔不断さを発揮して、入部を戸惑っていた。このとき下沢が迷っていた部は実は弓道部であったことはあれから2年たった今でもからかわれ続けている。特に秋田さんに。

5月
春の初戦として、この年1部にあがってきた帝京とのスクリメージが日吉で行われた。このときの私はアメフトのことが全く分からなかったし、それにこのときもまだ勧誘が続いていたため、私は他の予科1の相手をしており、どんな試合だったか全く覚えていない。慶応が勝ったことだけは覚えているが。ちなみにこのとき原田は試合にこなかった。その一年後はじめて日吉で練習するとき、原田は間違えて塾高のグランドに行ってしまうことになるが、それはこの欠席のつけである。

6月
春の第2戦、明海戦が雨の中明海グランドで行われた。試合は6対0で慶応が勝った。試合後整列するとき、私と原田がだらだらしていたため、秋田さんに「もう勧誘終わってんだよ!」と怒鳴られた後、鎌田さんが「俺たちもああやっていきなり怒鳴られたんだよね」とフォローしてくれたのを覚えている。ちなみにこの月にダンパもあったのだが、私は場所がわからず、六本木まで正装で行きつつもそのまま帰った。このころから「下沢携帯もたんかい」といわれ始めるが、結局持ったのは2年後である。

8月
夏練、そして夏合宿があった。1発目の合宿は中村旅館で行われた。秋田さんいわく、「前代未聞の楽な合宿」だったらしいが、私はこんなにまとまって運動に時間を割いたことがなかったため、非常につらかった。最後の塾高戦で、原田がインターセプトをしたのを今でも鮮明に覚えている。2発目の合宿は山中湖で行われたが、そのちょっと前の練習で小田さんが横突起を折ってしまい、合宿に参加できなくなってしまった。ちなみに折ったのは私です、すいませんでした。合宿は中村とは比べものにならないほどハードで、毎日玉川大学とメージが組まれ、さらに東海大学海洋学部と合同練習をしたりもした。この合宿には、前の合宿に来ていなかった田中も加わり、やっと予科1のフルメンバーがそろった。

9月
試合直前の練習、そして東大との試合も組まれた。このころになると、下沢はDTとして、原田はTEとして少し試合に出ることができるようになった(結果はともかく)。東大戦のとき、サッカー部は合宿をしていたため、田中はそこから直接試合にやってきた。試合にぎりぎり間に合った田中は小黒さんに対していの一番に「アップはできています!」と言ったらしい。

10月、11月
ついにリーグ戦が始まったが、畔柳さんと小田さんがけがをしていたため、なんと私がDTとしてスタメンになってしまった。初戦の帝京戦は、なんにも分からないまま終わってしまった。そしてまさかの敗北、という結果になってしまった。この後の3試合はまさに背水の陣、私も自分に与えられた仕事を全力でやった(つもり)。結果東医、聖マリ、明海と三連勝を飾ることができた。最終的に明海に負けた帝京と同率1位となったが、直接対決の結果によりプレーオフに進めなかった。

1999年1月
納会があった。MVPは秋田さん、特別賞に根本さん、新人賞に私下沢が選ばれた。根本さんが「去年の新人賞のトロフィーをもらう前にまた賞をもらってしまった」と言っていたのが印象的だった。

(おまけ)3月
3月ももうすぐ終わり、今年は留年者もなく一安心。そんな矢先、田中がついにサッカー部を捨ててアメフト部1本にしぼってくれた。そんなわけで田中は1年間ずっと接待づけだったのだが、そのついでに私と原田も接待されていた。この年の予科1は、他の年に比べものすごい高待遇だったらしい。(文責下沢)